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大阪市立図書館 OSAKA Municipal Library
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※ 各区やわが町・大阪について、図書館でよくお尋ねのある質問と回答を区毎にまとめてみました。
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西区に関するよくある質問と回答

西区内の商店街における店舗数を知りたい

 「商業の国勢調査」ともいわれている、経済産業省編『商業統計表』(1952年より調査開始。1997年以降は5年ごとに調査。)は、国内の卸売、小売業について、市区町村別、業態別、品目別などにわけて調査した資料です。『商業統計表 立地環境特性別統計編』*1には「商業集積地区(商店街)の都道府県別、市区町村別の商店街数、事業所数、大規模小売店舗数、大規模小売店舗内事業所数、従業者数、年間商品販売額及び売場面積」という調査結果が記されています。これは、全国各地の商店街にある店の数や従業員の数、年間商品の販売額などを記したもので、大阪市のような政令指定都市では区の単位まで区分されています。
 こちらによりますと、大阪市西区の事業所数(店舗数)の合計は303です。

【参考文献】
*1 『商業統計表 立地環境特性別統計編』経済産業省経済産業政策局調査統計部 2006 書誌ID 0011181537
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太平洋戦争時の西区内の空襲被害を知りたい

 基本的な資料として『新修大阪市史 第7巻』*1『大阪市戦災復興誌』*2の2点があげられます。
 この他にも『大阪空襲に関する警察局資料 -小松警部補の書類綴より- T』*3 『大阪空襲に関する警察局資料 -小松警部補の書類綴より- U』*4 『太平洋戦争下の防空資料 -小松警部補の書類綴から-』*5 の3冊は終戦当時、大阪府警察局警務部警備課の情報係員であった小松繁治氏が職務遂行上綴った書類群をもとに翻刻されたものであり、空襲での罹災戸数や死傷者数、統計的な事柄を知ることができます。
 たとえば、3月13日未明の「第一次大阪大空襲」では、空襲警報の発令時刻、被弾状況、被害状況などから、民心の動向や警察署などの被害状況にいたるまで細かく記されています。西区の被害状況をみると、3月19日18時現在の九条と新町、それぞれで全焼6,410件と14,000件というように報告されています。このほか、死者や重傷者、行方不明者、罹災者の数も記されています。
 また、体験談や当時の町の様子などをお知りになりたいなら、『大阪大空襲体験記』*6、『大阪大空襲の記録』*7 などの体験集が多数出版されています。他にも、小学校などの学校誌などにも体験記が掲載されていることがあります。西区内では『大阪市立西船場小学校100年の歩み』*8、『百年のあゆみ 大阪市立堀江小学校』*9などに当時の様子が比較的詳しく描かれています。

【参考文献】
*1『新修大阪市史 第7巻』新修大阪市史編纂委員会大阪市 1994 書誌ID 0000400903
*2『大阪市戦災復興誌』大阪市 1958年 書誌ID 0070051813
*3『大阪空襲に関する警察局資料 -小松警部補の書類綴より- T』松原市史編さん室 松原市役所 1976  書誌ID 0000573612
*4『大阪空襲に関する警察局資料 -小松警部補の書類綴より- U』松原市史編さん室 松原市役所 1977    書誌ID 0000573614
*5『太平洋戦争下の防空資料 -小松警部補の書類綴から-』小山 仁示編 大阪市史料調査会 1981  書誌ID 0000619812
*6『大阪大空襲体験記』大阪大空襲を語る会 1972 書誌ID 0000410100
*7『大阪大空襲の記録』大阪大空襲の体験を語る会遍 三省堂 1983 書誌ID 0000157663
*8『大阪市立西船場小学校100年の歩み』小倉 正巳編 大阪市立西船場小学校開校100周年記念事業委員会  1972 書誌ID 0080215294
*9『百年のあゆみ』大阪市立堀江小学校創立100周年記念事業記念誌編集部編 大阪市立堀江小学校 1973   書誌ID 0080215279
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阿弥陀池と長野県の善光寺の関係について知りたい

 大阪市西区北堀江にある和光寺は阿弥陀池でおなじみです。この阿弥陀池、「牛にひかれて善光寺」で有名な長野県の善光寺と深い関わりがあるといわれています。『大阪史蹟辞典』*1の和光寺の項には、仏教が日本に伝わった頃、その推進派であった蘇我氏と反対派であった物部氏との間に争いがあり、物部氏が蘇我氏から奪った仏像を「難波堀江」に叩き込んだと書かれています。
 これを後年になって信濃(今の長野県)の本多善光という人が拾い、地元に持ち帰って本尊として開いたのが善光寺であるというわけです。このエピソードは「善光寺縁起」*2などにも採用されています。現代の我々が堀江と呼んでいる地域がこの「難波堀江」であるかどうかは否定されるところ(牧村史陽「阿弥陀池和光寺」*3)ですが、本田善光が仏像を拾った池が阿弥陀池であるという言い伝えはあったようでして、「阿弥陀池略縁起」という資料にもその言い伝えが書かれています。この「阿弥陀池略縁起」ですが、『大阪の歴史と文化財』*4には「『阿弥陀池略縁記』について」という論文で紹介されています。翻刻も掲載されています。
 和光寺は善光寺にあった阿弥陀仏の分身を迎えて建立されたといわれています。和光寺ができる前の阿弥陀池も人々の信仰を集めていたようで、和光寺が建立される前に書かれた『芦分船』*5という地誌には、阿弥陀池に向かって拝んでいる人物が描かれたりしています。また、前述の牧村「阿弥陀池和光寺」には和光寺の創建についても触れています。

【参考文献】
*1『大阪史蹟辞典』 三善貞司編 清文堂出版 1986年 書誌ID 0000214926
*2本稿で参考にしたものは『大日本仏教全書』 第86巻 鈴木学術財団 1972年 書誌ID 0080170007
*3『大阪人1962年5月号』大阪都市協会 書誌ID 0080310533 p70〜75
*4『大阪の歴史と文化財』 第11号 大阪市文化財協会 2003年 書誌ID 5110525228 p34〜38
*5本稿で参考にしたものは『浪速叢書』 第12巻 船越政一郎編纂校訂 浪速叢書刊行会 1927 書誌ID 0000329735
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江之子島にあったという大阪市役所の庁舎について知りたい

 大阪市の本庁舎は大阪市北区中之島1丁目3番20号。地下鉄御堂筋線・京阪電鉄「淀屋橋」駅下車徒歩3分のところにあります。『新修大阪市史』第6巻*1によりますと、中之島の地に市庁舎が開設されたのが大正10年。また、同じ『新修大阪市史』の第5巻*2を参照しますと、大阪市の誕生、いわゆる市制町村制公布は明治22年であることがわかります。こちらによりますと、当時の市の行政事務は西区江之子島にあった大阪府庁舎(府庁舎が現在地に移ったのは大正15年)のなかで行われていたそうです。
 この江之子島、明治時代には府庁舎のほか、府会議事堂、税務署などが設けられ、官庁街をなしていたといわれています。
 大阪市が独立した庁舎を持ったのは明治32年になります。府庁舎と同じ西区江之子島に建設されました。このあたりのいきさつは当時の新聞などでも詳細に報じられたようですが、現在、わかりやすい資料として『大阪市公文書館紀要』*3に掲載されている平塚哲朗「大阪市庁舎の変遷-中之島旧庁舎の誕生-」があげられます。本論では江之子島から中之島に市庁舎が移転するまでの変遷が記されています。

【参考文献】
*1『新修大阪市史』第6巻 新修大阪市史編纂委員会編 大阪市 1994年 書誌ID 0000427809 P828
*2『新修大阪市史』第5巻 新修大阪市史編纂委員会編 大阪市 1991年 書誌ID 0000215623 P197
*3『大阪市公文書館紀要』 第10号 大阪市公文書館 1998年 書誌ID 5100138570 P21〜60 ・『大阪府の地名』日本歴史地名大系28-1 平凡社 1986年 書誌ID 0000156512
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四ツ橋について

 『角川日本地名大辞典 27 大阪府』*1には、「西横堀川に架かる上繋(かみつなぎ)橋・下繋(しもつなぎ)橋、長堀川に架かる炭屋橋・吉野屋橋の4つの橋が井桁上に架かっている珍しさから、古くから浪花名所の1つとなり...」と説明があります。
 「摂津名所図会」など江戸期に著された諸書にも登場し、橋上のにぎわい、舟運の盛んな様子を今日に伝えています。
 各橋の構造や歴史については『埋もれた西区の川と橋』*2に詳しい記述があります。
 先の『角川日本地名大辞典』*1には続いて「明治41年、北西端の交差点に大阪最初の市電交差点ができ、交差した複線の線路が東西南北どちらへでも曲がれるようになっていた。当時は、この交差点が珍しがられ、多数の見物客があったという」と記されています。この市電初の交差点については、『百年の大阪 第4巻』*3や『大阪史話』*4に例話があり、当時の世相を生き生きと伝えています。当館のホームページ、イメージ情報データベース*5では、当館所蔵の明治末から大正期にかけての四ツ橋の写真や絵葉書をご覧いただけます。
 江戸時代から名所として親しまれた四ツ橋は、昭和46年に西横堀川、昭和48年に長堀川が完全に埋め立てられ、姿を消してしまいました。長堀通の中央の緑地が阪神高速道路と立体交差している部分に、小西来山と上島鬼貫の句碑が残されており、それによって在りし日の威容を偲ぶことができるのみです。*6

【参考文献】
*1 『角川日本地名大辞典 27 大阪府』 角川書店 1983 書誌ID 0000184865 p1257
*2 『埋もれた西区の川と橋』 伊勢戸佐一郎著 大阪中部ライオンズクラブ 1990 書誌ID 0000225539 p63〜70、p267〜271
*3 『百年の大阪 4巻』 大阪読売新聞社 浪速社 1967 書誌ID 0070052028 p93〜99
*4 『大阪史話』 朝日放送 創元社 1965 書誌ID 0000330836 p31〜36
*5 大阪市立図書館イメージ情報データベース 
http://www.oml.city.osaka.jp/cgi-bin/img_src/index.cgi
*6 『大阪人物辞典』 三善貞司著 清文堂出版 2000 書誌ID 0000832804 p621 小西来山の句碑に触れるとともに、近年では、この句は同年代の大阪俳人・盤水の作とされている事も記述されています。
・『大阪の橋』 松村博著 松籟社 書誌ID 0000164468 p206〜209
・『大阪春秋 19号 おおさかの橋と川』 大阪春秋社 1979 書誌ID 0070052023
・『大阪人 1986年4月号』 大阪都市協会 書誌ID 0080310565 p16〜17
・『大阪史蹟辞典』 三善貞司著 清文堂出版 1986 書誌ID 0000214926 p621
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鰹座橋(かつおざばし)交差点の名前の由来について

 かつて鰹座橋交差点には、1970(昭和45)年の長堀川の埋め立てにより姿を消してしまいましたが、鰹座橋という橋がありました。鰹座橋の名前の由来については、『角川日本地名大辞典 27 大阪府』*1には、「川の右岸にかつて土佐(高知県)名産の鰹の座が存在したことに由来する。橋の両側一帯には土佐藩の蔵屋敷が並んでいた。」とあります。大阪市立中央図書館の西側にある土佐稲荷神社も土佐藩ゆかりの神社です。
 また『西区史 3巻』*2には、「鰹座橋の北詰辺は鰹節問屋の多かりし所にて、土佐・薩摩・阿波・紀伊・伊予・駿河・伊豆・相模・安房・上総・奥州等より産出したが、殊に土佐と薩摩は国産として多数に廻送し来り…」とあります。『埋もれた西区の川と橋』*3には、昭和初期の写真や当時の様子が記されています。

【参考文献】
*1 『角川日本地名大辞典 27 大阪府』 角川書店 1983 書誌ID 0000184865 p307
*2 『西区史 3巻』 西区史刊行委員会[編] 清文堂出版 1979 書誌ID 0070052014 p343
*3 『埋もれた西区の川と橋』 伊勢戸佐一郎著 大阪中部ライオンズクラブ 1990 書誌ID 0000225539 p297〜299
・『大阪の橋』 松村博著 松籟社 書誌ID 0000164468 p232〜233
・『日本歴史地名大系 28-[1] 大阪府の地名 1』平凡社 1986 書誌ID 0000156512 p528
・『大阪府全志 巻之2』井上正雄著 清文堂 1985 書誌ID 0000172307 p809
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立売堀(いたちぼり)について

 『日本歴史地名大系 28-[1] 大阪府の地名 1』*1には、「名称の由来には諸説あるが、一般的には「摂津名所図会大成」にあるように、大坂冬の陣・夏の陣に際して伊達家の陣所が置かれていた地で、その要害の堀切であったところを堀足して堀川としたことから伊達(だて)堀と称され、のちに伊達(いだて)堀、伊達(いたち)堀とよばれるようになり、さらに近辺で木材の立売が許可されたため「立売堀」の字を用いるようになったとされる。なお「宝暦町鑑」「天保町鑑」には「伊達堀(いたちぼり)」とあり、町名は「立売堀(たちうりぼり)」と記される。」とあります。
 『大阪市史 第1』*2には、「今日本川(立売堀川)の沿岸に多数の材木商を見るがごとく、往時も此に材木の立売行れ従て立売堀川の名称を得しならん。之をイタチ堀と訓むは、立売にイタチの訓あるにあらず、本川の一名伊達堀の音を伝えたるにて…」とあり、また一説として『摂津名所図会大成』を引用して「慶元戦争の時、伊達家の陣所の地にして、要害の堀切なりし跡を、穿足して川とせし故に、始は伊達堀とよべり」と紹介しています。
 『西区史 3巻』*3には、江戸時代初期、「元和末年の頃、土佐藩より幕府に申請して材木市場が始めて許可され、材木の立売が行われるに至り「立売堀」と称されるようになったと云う」とあります。

【参考文献】
*1 『日本歴史地名大系 28-[1] 大阪府の地名 1』平凡社 1986 書誌ID 0000156512 p508
*2 『大阪市史 1』 大阪市[編] 清文堂出版 1965 書誌ID 0080102567 p299
*3 『西区史 3巻』 西区史刊行委員会[編] 清文堂出版 1979 書誌ID 0070052014 p311
・『角川日本地名大辞典 27 大阪府』 角川書店 1983 書誌ID 0000184865 p142
・『大阪府全志 巻之2』井上正雄著 清文堂 1985 書誌ID 0000172307 p809
・『摂津名所図会大成 其之2』 暁鐘成著 松川半山画 柳原書店 1976書誌ID 0000157048 p275
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川口居留地について

 1867(慶応3)年に、幕府が外国と結んだ「兵庫港並び大坂に於て外国人居留地を定むる取極」により、川口御舟手(舟番所などが置かれていた。1864(元治元)年に廃止。)の場所が居留地となり、その南側が雑居地になりました。
 1868 (慶応4年7月)年9月、大阪が開港したのに続き、居留地26区画が諸外国に競売。その結果イギリス(13区)・フランス(2区)・プロシア(4区)・オランダ(2区)・アメリカ(4区)・ベルギー(1区)に落札されました。居留地全体の面積は約4万5千平方メートル、そのうち26区画の総面積は約2万6千平方メートルでした。当初、商人が多く住み、珍しい品々が売買されましたが、港の大型船舶の出入りの不便さなどもあり、商人は、神戸居留地に移っていきました。その跡には、キリスト教会や、学校、病院などが入居し、ウヰルミナ女学校(後の大阪女学院)・永生女学院(後のプール学院)・照暗女学院(後の平安女学院)・三一教会の中に設けられた男子校(後の桃山学院)・英和学舎・聖バルナバ病院・信愛孤児院(後の信愛女学院)などが、次々に創設され、特に、女子教育に力が注がれました。
 川口居留地は、道路に街路樹が植えられ、石油ランプの街燈が灯るなど、「文明開化」そのものであり、西洋文化の窓口でしたが、1899(明治32)年に廃止され、外国人の永代借地権は、1942(昭和17)年3月にすべて消失しました。居留地の競売や外国人住人の変遷などは、『大阪史蹟辞典』*1『大阪川口居留地の研究』*2『川口居留地』*3『大阪府の教育史』*4に記載されています。『懐かしい西区と川口居留地写真展』*5『住まいのかたち暮らしのならい』*6では、当時の居留地の建物やジオラマの写真をみることができます。
本田小学校西北隅には、1961(昭和36)年3月大阪市が建てた「川口居留地跡」の顕彰碑があります。1992(平成4)年には、その横に記念のモニュメントの石碑が設けられています。また、大阪市立住まいのミュージアム(大阪くらしの今昔館)には、居留地の一部を大きくした展示があります。

【参考文献】
*1『大阪史蹟辞典』 三善貞司編 清文堂出版 1986 書誌ID 0000214926 p113
*2『大阪川口居留地の研究』 堀田暁生共編 西口忠共編 思文閣出版 1995 書誌ID 0000445309
*3『川口居留地』 川口居留地研究会
   1号 1988.5 書誌ID 5100124734
   2号 1989.12 書誌ID 5100124733
   3号 1994.7 書誌ID 5100099692
*4『大阪府の教育史』梅渓昇編著 思文閣出版 1998 書誌ID 0000656431 p292〜297
*5『懐かしい西区と川口居留地写真展』 なにわの海の時空館編集 なにわの海の時空館 書誌ID 0011503160 p113
*6『住まいのかたち暮らしのならい』 大阪市立住まいのミュージアム編 平凡社 2001 書誌ID 0010072539 p66

江戸時代の有名な町人学者、木村蒹葭堂(きむらけんかどう)の屋敷が西区のどこにあったか

 『大阪春秋 20号 西区および西大阪』*1所収の「木村蒹葭堂邸跡周辺と市立中央図書館」(古西義麿著)に、屋敷跡についての記載があります。記事の中で、蒹葭堂邸周辺の見取図(第2図)が掲載されており、図の中に蒹葭堂邸跡が明記されています。また、同じく蒹葭堂邸跡として資材置場(第3図)の写真も載せられていて、昭和54(1979)年当時、大阪市立西商業高校(現在の西高校)裏手の資材置場だった場所(西区北堀江4丁目5)が木村蒹葭堂の屋敷跡にあたることがわかります。
 さらに、屋敷跡ではなく中央図書館東南角に「木村蒹葭堂邸跡」碑があることについて、戦前大阪府が屋敷跡に建立した「蒹葭堂址」碑が戦災で行方不明となり、昭和35(1960)年に大阪市が始めた市制70周年記念の史跡顕彰事業において、最初に選定を受け、顕彰のため多くの人々の目にふれやすい公共地である現地に建立された旨の解説があります。
 『木村蒹葭堂 -なにわ知の巨人, 特別展没後200年記念-』*2には、「北堀江五丁目水帳絵図」(安永3[1856]年、大阪歴史博物館蔵)の図版が掲載されており、その解説(井上智勝執筆)で、瓶橋北詰にあった蒹葭堂の屋敷はこの図の「灘屋清兵衛」の所持地になっているところと推定されています。灘屋清兵衛は蒹葭堂と同じく酒造業を営んでいたそうです。

【参考文献】
*1『大阪春秋 20号 西区および西大阪』大阪春秋社 1979 書誌ID 0070031718 p42〜45
*2『木村蒹葭堂 -なにわ知の巨人, 特別展没後200年記念-』思文閣出版 2003 書誌ID 0010459658 p13、p168
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中央図書館の敷地の近くにはかつて何があったのか


  大阪市立中央図書館は昭和36(1961)年、現在地の大阪市西区北堀江4丁目(開館当時の町名は北堀江御池通)に誕生しました。建設直前の地図にあたる『大阪市区分詳細図 西区』*1を見ると、中央図書館の敷地には「公園」と記されていますが、『図書館通信No.1』*2のp1には、「市大家政学部グラウンド跡の用地に今着々と建設工事がすすめられている」と書かれており、この地は大阪市立大学のグランドとして使用されていた時期があったようです。
  大阪市立大学家政学部は市立中央図書館が建設される前からこの敷地の北側に隣接して建設されていました。同学部は大阪市立女子専門学校を拡充強化したもので、昭和24(1949)年4月に開校しました。
  大阪市立女子専門学校の歴史は大正10(1921)年に開校した西区高等実修女学校にまで遡ります。前年に改正された実業学校令に基づいて設立され、大正13(1924)年に大阪市立高等西華女学校、昭和16(1941)年に大阪市立西華高等女学校と改称されました。設立当初の校舎は西区江戸堀にありましたが、立売堀校舎時代を経て、昭和12(1937)年に現中央図書館の北隣にあたる西長堀南通(現在の住居表示は北堀江)に移転しました。なお、『西区史 第三巻』*3のp350によれば、この土地は土佐藩の大阪藩邸および蔵屋敷跡で、明治維新後は土佐士族岩崎弥太郎が所有し、三菱本社及び岩崎家事業の発祥地でもありました。
  『大阪市立大学要覧 昭和28年度』*4のp104には「校地、校舎、建物」の項に総合運動場の所在地が西区北堀江御池通であったと記されています。また、『大阪市立大学10年の歩み』*5のp48には家政学部の配置図があり、校舎の南側にグランドがあったことがわかります。
  その後、大阪市立大学家政学部は、昭和43(1968)年10月に住吉区杉本町に移転し、昭和50(1975)年には生活科学部と改称され、現在に続いています。


【参考文献】
*1 『大阪市区分詳細図 西区』和楽路屋 1961 書誌ID 0000437535
*2 『図書館通信No.1』(1960.10)大阪市立中央図書館
*3 『西区史 第三巻』西区史刊行委員会/[編] 清文堂出版 1979 書誌ID 0070052014
*4 『大阪市立大学要覧 昭和28年度』大阪市立大学事務局 1953 書誌ID 0080215164
*5 『大阪市立大学10年の歩み』大阪市立大学創立10周年記念誌編集委員会/編 大阪市立大学1959 書誌ID 0080214997
・『大阪市立図書館50年史』大阪市立中央図書館 1972 書誌ID 0000372730
・『大阪市立大学百年史 全学編 上巻』大阪市立大学百年史編集委員会/編集 大阪市立大学 1987 書誌ID 0070018783
・『大阪市立大学百年史 部局編 下』大阪市立大学百年史編集委員会/編集 大阪市立大学 1983 書誌ID 0070049345
・『生活科学部の五十年』生活科学部創立50周年記念誌編集委員会/編集 大阪市立大学生活科学部 1999 書誌ID 0000769972
・『新修大阪市史 第十巻付図 「天保期の大坂三郷」』新修大阪市史編纂委員会/編集 大阪市 1996 書誌ID 0000588399
・『南北堀江誌 附幸町』蒲田 利郎/編纂 南北堀江誌刊行会 1929 書誌ID 0000246503
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