大阪市立図書館:浪速区に関するよくある質問と回答 本文へジャンプ
大阪市立図書館 OSAKA Municipal Library
蔵書検索利用案内おしらせ・催しもの大阪の古地図・古文書よくある質問|サイトマップ(目次)

※ 各区やわが町・大阪について、図書館でよくお尋ねのある質問と回答を区毎にまとめてみました。
          ⇒各区名の一覧はこちらです        ⇒分野別の一覧はこちらです

浪速区に関するよくある質問と回答

浪速区幸町にある安政の地震津波碑の碑文全文を知りたい

 安政の地震津波とは、嘉永7年(安政元年・1854年)11月4・5日に大阪を襲った紀伊半島沖に震源をもつ推定マグニチュード8.4の大地震と、それに伴って起きた大津波のことです。その状況を記録し、後世の人のために戒めを伝える目的で安政2年7月に、被害の甚大だった浪速区幸町五丁目大正橋の東詰に石碑が建立されました。そこには、大地震が起きた場合には必ず津波が襲うものと心得るべきだと教訓が書かれています。
 雑誌『ヒストリア』第148号*1(p.91〜95)所収の小田康徳「大阪における安政の地震津波碑と震災の記憶について」の中に碑文の原文全文が掲載されています。ただし、「この文章はこの石碑から直に写したものではなく、浪速区幸町三丁目居住増井健蔵氏所収の木版刷にもとづくもので、若干の異同がある。」と記述されています。
 『大正大阪風土記』*2(p.327〜328)「津波の碑」の項にも碑文の原文の掲載がありますが、石碑の背面と右面の碑文のみです。また、『ヒストリア』掲載のものと、句読点やかな使いに若干の異同がありますが、こちらが石碑から直に写したものかどうかは明らかにされていません。
 浪速区役所ホームページでは、「区のスポット・名所・旧跡」として「安政大津波記念」の碑が取り上げられています*3。そこでは、碑に隣接して設置された記念碑に碑文の原文と共に現代語訳が記されているとした上で、現代語文を紹介しています。

【参考文献】
*1 『ヒストリア』第148号(大阪歴史学会 1995.9) 書誌ID5100167885
*2 『大正大阪風土記』(大阪市教育部共同研究会編 大正大阪風土記刊行会 1927) 書誌ID0000599888
*3 インターネット・サイト『浪速区役所ホームページ>区内の官公署、主な施設、名所旧跡等>名所・旧跡等>区のスポット・名所・旧跡>碑>「安政大津波」の碑 
http://www.city.osaka.lg.jp/naniwa/page/0000000848.html (2013年3月25日確認)
△このページの目次へ  |  ▲このページの先頭へ

折口信夫(おりくち しのぶ)の生誕地にある文学碑の出典を知りたい

 国文学者・歌人(筆名・釈迢空 しゃくちょうくう)・民俗学者として知られる折口信夫(おりくちしのぶ)の生誕地は大阪市浪速区です。浪速区敷津西1丁目7番(鴎町公園内)に「折口信夫生誕の地」の碑と文学碑が建てられており、『大阪市文学碑』*1(p.22〜23)に碑文全文と説明が掲載されています。
ほい駕籠を待ちこぞり居る人なかに
おのづからわれも待ちごゝろなる
  正月がすむとすぐ十日戎である
  今宮の戎前から難波の入堀(イリホリ)川に面
  したお蔵跡(クラアト)まで十丁あまりの間に
  ずつと子寶(コダカラ)店その外の店が出て
  揉み返すやうな人ごみである其
  中を壓され壓されて來る色町のほい
  駕籠を見に出た記憶が消えない

         折口 信夫全集より
と刻まれていますが、これは『折口信夫全集 第28巻』*2(p.150〜152)所収の「増井の清水の感覚」から抜粋された一文です。
 浪速区役所ホームページ*3では、「区のスポット・名所・旧跡」として「折口信夫(おりくちしのぶ)生誕の地」の碑と文学碑が紹介されています。
【参考文献】
*1 『大阪市文学碑』(大阪市ゆとりみどり振興局文化振興課 2004改訂) 書誌ID0010869897
*2 『折口信夫全集 第28巻』(折口博士記念会編纂 中央公論 1957) 書誌ID0000337258
*3 インターネット・サイト『浪速区役所ホームページ>区内の官公署、主な施設、名所旧跡等>名所・旧跡等>区のスポット・名所・旧跡>碑>「折口信夫(おりくちしのぶ)生誕の地」の碑と文学碑 
http://www.city.osaka.lg.jp/naniwa/page/0000000863.html (2013年3月25日確認)
△このページの目次へ  |  ▲このページの先頭へ

通天閣のあたりにあったというルナパークとはなんでしょうか

 『大阪モダン』*1によると明治36年に開催された第五回内国勧業博覧会の跡地に大阪市が天王寺公園を建設し、余った土地を民間会社に貸与して一大娯楽場・新世界が建設されました。そして明治45年7月3日、初代通天閣と共に開業した遊園地がルナパークです。街の北側はパリ、南側はニューヨークのアミューズメントパーク・ルナパークを模し、街の中心にはエッフェル式高塔の通天閣が配置されました。
 『明治大正大阪市史1巻』*2にもルナパーク内には動物園やメリーゴーラウンド、飛瀑噴泉、演舞場等のほか、通天閣と白塔の間に索道飛行船が設置され当時としては最も尖端的な遊覧場であったと記述があります。当時の様子を詳しく知るには『大阪新名所新世界写真帖』*3にルナパークをはじめ新世界の各施設の写真と解説が載っています。開業当初は一日平均二万五、六千人の入場者でにぎわったルナパークはその後数回の改造を重ね、『新世界興隆史』*4によると大正14年に別会社に売却され興行街に生まれかわりました。
 大阪市立中央図書館では当時の様子を描いた絵はがきを所蔵しており、大阪市立図書館ホームページのwebギャラリー「嗚呼懐かしき新世界」*5でもごらんいただけます。
 ちなみに現在、浪速区恵美須東にある通天閣は昭和31年に二代目として再建され、平成18年に開業50周年をむかえました。

【参考文献】
*1『大阪モダン』橋爪紳也 NTT出版 1996 書誌ID 0000559889
*2『明治大正大阪市史 1巻』大阪市役所 日本評論社 1934 書誌ID 0070031234 p790
*3『大阪新名所新世界写真帖』大阪土地建物 1913 書誌ID 0000379723
*4『新世界興隆史』徳尾野有成 新世界興隆史刊行会 1934 書誌ID 0080230556
*5大阪市立図書館のホームページ  
http://www.oml.city.osaka.jp/image/themes/theme409.html
『新修大阪市史 6巻』新修大阪市史編纂委員会 大阪市 1994 書誌 ID 0000427809 p843〜845
『大阪人 2003年11月号 博覧会シティ・新世界』大阪都市協会 書誌ID 5110615458
△このページの目次へ  |  ▲このページの先頭へ

「難波の綱引」について

 浪速区元町の難波八坂神社で行われている綱引神事のことです。
 古くは産子の人々が左右に分かれて大綱を引きあい、勝った方がその年の福を得るという年占の綱引でしたが、同社の祭神素盞鳴尊の故事に基づき八頭八尾の大綱を蛇の形につくり、その年の恵方に引き合った後、綱を担ぎ神社の周囲を巡行するようになりました。
 創始年代は不明ですが、『摂津名所図会』*1に「難波村 牛頭天王綱引」として絵入りで紹介されていることから少なくとも江戸時代から続く行事であることがわかります。明治時代の前半に一時途絶えたこともありましたが、明治30(1897)年に再興され、現在まで続いています。
 元来、1月14・15日に行われていましたが、平成10年からは1月の第3日曜に行われています。
「難波八坂神社綱引神事@−関連史料と先行研究−」伊藤純*2、
「難波八坂神社綱引神事A−現在の神事と周辺のことなど−」野本寛一*3に詳しい研究資料が書かれています。
 郷土研究雑誌「上方」の創刊号表紙にも、難波の綱引の絵が使われています。*4

【参考文献】
*1 『摂津名所図会 3』 秋里籬嶌著 竹原春朝斎図画 田村九兵衛 1796
(所収『名所図会叢刊3』新典社 1984書誌ID 0090004723 p304)
*2 『大阪の歴史と文化財 7号』 大阪市文化財協会 2001書誌ID 5110040868 p29〜39
*3 『大阪の歴史と文化財 8号』 大阪市文化財協会 2001 書誌ID 5110155659 p37〜49
*4 『上方 : 郷土研究 1(上)』上方郷土研究会新和出版1969 書誌ID 0000245119
△このページの目次へ  |  ▲このページの先頭へ

浪速区の区名の由来を知りたい

 『浪速区史』*1によると、当地域が現在の区名である「浪速区」という名称に決定したのは大正14年(1925)のことです。
 浪速区は大阪市の第2次市域拡張の一環として、南区の一部から分離独立する形で誕生しました。
 新区名については、当初古くより引き継がれてきた呼び名である「難波(なんば)」区とする案が有力でした。この名は、まだ上町台地のすぐそばまで海が迫っていた古代には既に、台地の東西が難波江・難波潟と呼ばれていたことなどに由来します。しかしこれを退ける形で反対意見(注1)が出されるなど、複数の案(注2)が乱立したまま議論が混乱し、解決の目処がたたない状態でした。同じように複数の名称案が乱立していた此花区ともども、この問題を解決に導いたのは博士王仁(わに)が詠んだとされる和歌です。
「浪速津に 咲くやこの花 冬ごもり 今ははるべと 咲くやこの花」(注3)
 この歌に詠まれた言葉より「なにわ」の名前が区名として正式に決定し、無事「浪速区」が発足することになりました。
(注1)「なんばく」は詰まって呼びにくい、読みは本来「なにわ」が正しい、画数が多くて不便である、などの意見が出されている。
(注2)「木津区」「戎区」など。
(注3)古今和歌集で紹介されている歌。王仁が仁徳天皇に奉じたとされる。
【参考文献】
*1 『浪速区史』川端 直正編 浪速区創設三十周年記念事業委員会 1957 書誌ID 0000246444 p2〜8
△このページの目次へ  |  ▲このページの先頭へ

難波御蔵・難波新川跡碑について

 この碑は1959(昭和34)年、市制70周年記念事業の一環として大阪球場前大阪ビリヤード付近に建てられたものです。大阪球場は1990年に閉鎖、1998年まで住宅展示場になっていましたが、2003(平成15)年に複合商業施設なんばパークスが開業しました*4、*5。碑は現在なんばパークスのカーニバルモール北側入口にあります。碑の側面には、当初「大阪球場の地は享保17年から幕末まで幕府の米蔵があったところで、水路としてここへ難波新川が通じていた。」*3と書かれていましたが、「江戸時代に幕府直轄の天王寺御蔵と難波御蔵の二つが当区にありました。ことに難波御蔵は享保17年(1732年)飢饉に際して設けられ、幕府直轄の米蔵が置かれたところでした。東西126m南北324mの敷地に米蔵八棟を有し、災害時の救援米貯蔵の役割を担っていました。翌、享保18年(1733年)道頓堀の湊町付近から難波御蔵への水運をよくするため堀川を掘ったのが難波新川です。明治11年(1878年)いたち川と連絡しましたが、昭和33年(1958年)には埋め立てられ姿を消しました。」(碑文通り)と書かれています。
 難波御蔵・難波新川については、『浪速区史』*1・『大阪史蹟辞典』*2に詳しく述べられています。

【参考文献】
*1 『浪速区史』川端 直正編集 浪速区創設三十周年記念事業委員会 1957 書誌ID 0000246444
*2 『大阪史蹟辞典』三善 貞司編 清文堂出版 1986 書誌ID 0000214926
*3 『大阪市内における建碑』川端 直正編 大阪市役所行政局 1960 書誌ID 0000322889
*4 『南海電鉄最近の10年 : 創業120周年記念 : 1995-2005』南海電気鉄道株式会社編集 南海電気鉄道 2005 書誌ID 0011121589
*5 『あの頃こんな球場があった』佐野正幸著 草思社 2006 書誌ID 0011144256
△このページの目次へ  |  ▲このページの先頭へ

赤手拭稲荷神社の由来について

 『浪速区史』*1に、「伝によれば、慶長年間中堤の中央に一大老松があって浪除松といわれ、その樹下に祀られた神祠であるところから松の稲荷と称したが、不思議の霊験を蒙ったものが、ここに集り神社を建て、紅染めの手拭を祠前に献じたのが恒例になって赤手拭稲荷というようになった。」とあります。祭神は、豊受皇大神・猿田彦命・宇受売命。1945年3月の空襲でご神体を残し焼失、現在の本殿は1948年に再建されました。
 上方落語「ぞろぞろ」の舞台としても有名で、芸能人も多く参拝しています。

【参考文献】
*1『浪速区史』川端 直正編 浪速区創設三十周年記念事業委員会 1957 書誌ID 0000246444
『大阪史蹟辞典』三善 貞二編 清文堂出版 1986 書誌ID 0000214926
『大阪春秋 60号 大阪の民俗信仰』大阪春秋社 1990 書誌ID 0080148977
△このページの目次へ  |  ▲このページの先頭へ

大国主神社に木津勘助の像があるが、何をした人か?

 木津勘助は、伝説的英雄で実像は不明。通説では、本名中村勘助で天正14(1586)年足柄山に生まれました。20代のはじめ木津村に住み、土木技術で豊臣秀吉につかえました。豊臣家滅亡後、木津川の治水・堤防作り・勘助島などの新田開発を進めました。寛永16(1639)年の大飢饉に際して、私財を投じて村人に分けましたが効果なく「お蔵破り」を決行して捕らえられました。葦島(大正区三軒家付近)に流され、新田開発に従事するも万治3(1660)年75歳で亡くなりました。真偽は別として、大阪の人に永く尊敬されていました。墓は唯専寺(浪速区敷津西)にあり、鴎町公園(浪速区敷津西)に勘助橋碑が建っています。*1
 木津勘助像は、大正11(1922)年侠客3代目南福こと新野伊之助が建立しましたが、戦時中に供出されたため昭和29(1954)年新野嘉男氏ら「勘助翁彰徳会」が復元・建立したものです。*2*3
 また、大正区の上八坂神社にも「中村勘助之碑」があります。*4

【参考文献】
*1 『大阪人物辞典』 三善 貞司編 清文堂 2000 書誌ID 0000832804 p851〜852
*2 『浪速区史』 川端 直正編 浪速区創設三十周年記念事業委員会 1957 書誌ID 0000246444 p337
*3 『大阪史蹟辞典』 三善 貞司編 清文堂 1986 書誌ID 0000214926 p225
*4 『大正ガイドブック』大正区役所 2007 書誌ID 0011422725 p7
△このページの目次へ  |  ▲このページの先頭へ

大阪球場について

  戦後、南海電鉄は大阪市域での集客事業の展開のため、球場を建設するという方向性をうちだし、昭和24(1949)年「大阪スタヂアム株式会社」を設立しました。翌昭和25(1950)年、大阪球場が南海電鉄難波駅に隣接する浪速区蔵前町(現在の難波中)の大阪地方専売局の工場跡地に建設されました。開場は9月12日でしたが、台風接近の荒天のため記念式典のみ開かれ、初試合として予定されていた南海ホークスの紅白戦は9月14日に順延されました。当初のスタンド収容人員は内野席が1万5千人、外野席が1万4千人の計2万9千人でしたが、当初から西側外野スタンドの増改築拡張が想定されていたらしく全体が完成すると3万5千人を収めることが可能とされていました。
  また、スタンド下部が5階建てのテナントビルとして利用されたのも画期的なことでした。都心という絶好の地の利を生かして、パ・リーグのみならずセ・リーグの試合が組まれるケースも多くなり、さらに歌謡ショー、オペラ、運動会など様々なイベントの開催場として、大阪球場はその名を高めていきました。しかし、やがて都市人口のドーナツ化現象が進行し、都心の人口が郊外に移動すると都心の球場は観客から遠い場所となり、パ・リーグの人気低迷も重なり来場者は減少していきました。そして昭和63(1988)年、南海ホークスは50年という球団の歴史に幕を閉じました。
  2年後の平成2(1990)年のシーズンまでは、福岡ダイエーホークスがビジターとして大阪球場に来て近鉄バファローズと試合をするなど、球場として存続しましたが、その後、フィールドは住宅展示場や仮設テントによるミュージカル上演などに使用されます。平成10(1998)年10月には「さよなら大阪球場!野球フェスタ98」が開催された後、スタンドの取り壊しが始まりました。現在、跡地は複合商業施設「なんばパークス」となっていて、9階には「南海ホークスメモリアルギャラリー」が設置されています。また、2階部分には、ホームベースとピッチャーズプレートをかたどった銘板が埋め込まれており、かつて大阪球場があった位置を教えてくれています*1 *2 *3。

【参考文献】
*1 『南海ホークスがあったころ』永井良和、橋爪紳也著 河出書房新社 2011書誌ID 0012071046
*2 『歓声とともに半世紀』大阪スタヂアム興業株式会社社史編纂委員会編集 大阪スタヂアム興業 1998 書誌ID 0000716615
*3 『浪速区史』川端直正編 浪速区創設三十周年記念事業委員会 1957 書誌ID 0000246444
△このページの目次へ  |  ▲このページの先頭へ