大阪市立図書館:住之江区に関するよくある質問と回答 本文へジャンプ
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※ 各区やわが町・大阪について、図書館でよくお尋ねのある質問と回答を区毎にまとめてみました。
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住之江区に関するよくある質問と回答


住吉高燈篭(すみよし たかどうろう)について

 現在、住吉高燈篭は住吉公園内(国道26号線の西側)にありますが、もともと鎌倉時代末期に、漁民たちが住吉大社への献灯のために住吉の浜(現在の位置より約200m西側)に建てた、わが国最初の灯台であったと言われています。
 以後明治時代の末まで度々修理が行われてきました。その間この辺りは海岸でしたが、その後埋め立てが進み高燈篭も海から遠ざかり、灯台としての役目を終え、史跡として保存されていました。明治41年に改築された木造の高燈篭も、昭和25年のジェーン台風で壊れた後は石垣積みの基礎だけが残されていましたが、昭和49年に現在地に石垣積みを移してコンクリート造で再建されました。
 『移りゆく住よし』*1(p.88〜94)に、江戸時代の寛政頃(1790年頃)の図と、昭和初期頃(1930年頃)の写真と再建された現在の写真とともに記載があります。
他に、『住之江区史』*2(p.142〜143)に昭和49年の再建の前(明治時代の木造)と後(現在のコンクリート造)の写真とともに記載があります。

【参考文献】
*1 『移りゆく住よし』石田稔共著 1988 書誌ID 0080238977
*2 『住之江区史』大阪都市協会編 住之江区制十周年記念事業実行委員会 1985 書誌ID 0000253225
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住吉大社(すみよしたいしゃ)の神事について知りたい

 3世紀に神功皇后によって創建されたという縁起を持つ住吉大社には、数多くの神事が伝わっていますが、『住吉大社史 下』*1の第21章「祭祀の伝承」(p441〜538)に、現行の130余度の祭典神事のうち、住吉大社だけに伝承されてきた独特の神事について、現行特殊神事として、ひとつひとつ現行の式次第を概観し、参考文献に基づきその変遷について記載があります。
 例えば、年頭の特殊神事として、神楽舞を納め福の餅を撒き、厄除と招福を祈る「踏歌神事」や、神馬が本殿の周囲を駆け回り、拝観すれば年中邪気を除くといわれる「白馬神事」、弓の射礼により除魔招福を祈る「御結鎮神事」をあげ、その起源から伝承までが記されています。

    現行特殊神事
1月 4日         踏歌神事
1月 7日         白馬神事
1月13日         御結鎮神事
2月上旬         埴使
4月 3日         松苗神事
5月上卯日       卯之葉神事
6月14日         御田植神事
7月第3土・日曜日    神輿洗神事
7月30日         宵宮祭    [住吉祭(おはらい)]
7月31日         夏越祓神事 [住吉祭(おはらい)]
8月 1日         荒和大祓   [住吉祭(おはらい)]
10月17日         宝之市神事
11月上旬        埴使

【参考文献】
*1 『住吉大社史 下』所功ほか執筆 住吉大社奉賛会 1983 書誌ID 0070096786
この他、以下にも関連記述があります。
『住吉大社』三好和義ほか著 淡交社 2004 書誌ID 0010710442 p85〜94, p113〜133(写真あり)
『住吉大社』住吉大社編 学生社 2002 書誌ID 0010434962 p137〜188
『住吉区誌』住吉区役所編 住吉区分区十周年記念事業委員会 1953 書誌ID 0000244945 p185〜188
『住吉区史』大阪都市協会編 住吉区制七十周年記念事業実行委員会 1996 書誌ID0000624165 p505〜511
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加賀屋緑地(加賀屋新田会所跡)について

 江戸時代中期以降、町人階級が蓄積した商業資本を土地に投入し、地代による長期の収益を得るのを目的とした、町人請負の新田開発が多くありました。『敷津浦発展史』*1によると、両替商であった加賀屋甚兵衛は、享保15年(1730年)から開墾・増墾してきた北島新田を小山屋九兵衛に譲渡した後、西方地続きの加賀屋新田開墾のため、宝暦4年(1754年)その地に新田事務所兼居宅としての新田会所を建築し、居を移しました。現南加賀屋4丁目にある加賀屋緑地は、その加賀屋新田会所跡です。
 加賀屋新田は、初代加賀屋甚兵衛(のちに桜井姓を称する)、二代桜井利兵衛、三代・四代桜井甚兵衛らの増墾により代々西へと拡大していきました。明治時代末、七代桜井菊太郎のとき、会所屋敷であった居宅が売り払われましたが、昭和7年武田元助氏が荒廃を惜しんで譲り受けました。*2
 『住之江区史』*3には、「広さ四千九百五十平方メートルに及ぶ邸内は戦災を免れ、小堀遠州流の築山林泉式庭園や鳳鳴亭と称する数奇屋風の建物が現存し、大阪名園の一つになっている。別名愉園は、大正三年、西村天囚(新聞記者、小説家、漢学者)が来邸したときに名付けたものという。」と記載されています。江戸時代の新田会所建築、新田会所跡として、平成13年度大阪市有形文化財・建造物と史跡に指定されています。『大阪市指定の文化財 平成13年度』*4

【参考文献】
*1 『敷津浦発展史』川端直正編 大阪市立敷津浦小学校創立100周年記念事業委員会 1974 書誌ID 0080191413 p33〜34,p39〜41
*2 『敷津浦発展史』川端直正編 大阪市立敷津浦小学校創立100周年記念事業委員会 1974 書誌ID 0080191413 p42〜48
*3 『住之江区史』大阪都市協会編 住之江区制十周年記念事業実行委員会 1985 書誌ID 0000253225 p144
*4 『大阪市指定の文化財 平成13年度』大阪市教育委員会 2002 書誌ID 0010270709 p2,p15
 この他、以下にも関連記述があります。
『大阪史蹟事典』三好貞司編 清文堂出版 1986 書誌ID 0000214926 p116
『敷津浦の歴史』川端直正編 大阪市立敷津浦小学校 1959 書誌ID 0000356545 p25〜39,p107
『郷土加賀屋の歴史』川端直正編 大阪市立加賀屋小学校 1954 書誌ID 0070081000 p15〜22,p55
『住吉区誌』住吉区役所編 住吉区分区十周年記念事業委員会 1953 書誌ID 0000244945 p67〜69,p237
『すみのえ・まち案内』住之江区役所区民企画室 2005 書誌ID 0011060899 p15〜18
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平林の貯木場について

 『住之江区史』*1によれば、大阪の木材団地は江戸時代始めに今の西区に起こり、大正7年に大正区に移転、木材街を形成しました。昭和7、8年の最盛期には業者数が500件を越え、西日本はもとより旧満州、朝鮮に商圏を広げ、豪商が軒を並べていました。
 第二次世界大戦を経て、戦災と高潮災害により大正区は壊滅的な被害を受けました。その復興のため立案された大正地区復興土地区画整理事業と大阪港復興計画により、大正区は内国貿易港区として整備されることになりました。一方、明治39年から昭和7年までに埋め立てられた約200haの平林地区は、戦後、その一部が野菜畑として利用されていただけで、土地の有効利用が望まれていたため、平林地区を近代的な貯木場として整備し、大正区内の貯木池、製材・合板工場、木材市場を平林地区に移転させることになりました。*2
 貯木場の建設工事は大阪市港湾局が昭和23年9月に単独市費で着工しましたが、翌年施行地全域を対象とした港南土地区画整理組合が設立され、組合方式による区画整理事業として進められることになり、大阪市も広範囲の土地を買収して地主の一員として参加しました。1、2、3、5、4号池の順に住吉川以南から進め、昭和27年度から共用を開始し、最後の4号池は35年度に着工、36年度から供用を始めました。所在地は、現在の地名で平林南1丁目・2丁目、平林北2丁目にあたります。その後、輸入原木の増加に対応するため、昭和34年に敷津運河を貯木場に転用する工事が完成し、また、南港東1丁目の木材整理場の一部を仕切って6号池を造成しました。全池の総面積は694,939u(他に敷津貯木場33,257u、木材整理場423,482u)に及び、かつての野菜畑は、南洋材や米材が浮かぶ木材工業団地に生まれ変わりました。*3
 後に、輸入木材において、原木よりも製品輸入の比率が高くなり、今では、貯木場の水面を輸入原木が埋め尽くす光景は見られなくなっています。
 なお、敷津貯木場は、平成3年、大阪市下水道局による「なにわ大放水路」建設事業に伴い埋め立てられました。

【参考文献】
*1 『住之江区史』 大阪都市協会編 住之江区制十周年記念事業実行委員会 1985 書誌ID 0000253225 p61
*2 『大正地区復興土地区画整理事業誌』大阪市都市整備協会編 大阪市建設局西部土地区画整理事務所 1995 書誌ID 0000455781 p80
*3 『住之江区史』 大阪都市協会編 住之江区制十周年記念事業実行委員会 1985 書誌ID 0000253225 p59〜61
 この他、以下にも関連記述があります。
『敷津浦発展史』川端直正編 大阪市立敷津浦小学校創立100周年記念事業委員会 1974 書誌ID 0070106593
『大阪港木材倉庫四十年史』 大阪都市協会編 大阪港木材倉庫 1998 書誌ID 0000704051
『大正ガイドブック』 大正区役所編 大正区役所 2007 書誌ID0011422725
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住之江公園について

 現在の住之江区にあたる場所にある公園として住吉公園がありますが、これは1873(明治6)年の太政官布告により住吉大社の西につづく松林一帯が大阪府ではじめての公園に指定されたものです。その後整備が進められましたが、市内の交通網の整備に伴い国道26号線が園内西部を南北に縦断、また南海電鉄の前身である阪堺鉄道敷設のさいにも園内東部を分断されることになり、公園機能は大幅に減退しました。その代償として住吉公園に比較的近いところに第二の公園として計画されたのが住之江公園です。*1
 1924(大正13)年12月、大阪府公園調査会で南加賀屋一丁目の現在地を選定、用地買収ののち、1927(昭和2)年に着工し、1930(昭和5)年10月に完成しました。造園工事の状況は、『大阪府住江公園工事概要』*2に詳しく記されています。面積は約14万3900平方メートルに及び、野球場や陸上競技場などがありましたが、1940(昭和15)年には西南部の約3万3千平方メートルを大阪護国神社に分譲、1948(昭和23)年には、陸上競技場を中心とした4万8千平方メートルが府営競輪場となり狭くなってしまいました。その後地元の強い要望で競輪場が1964(昭和39)年5月に廃止されたのを機会に復旧、整備が進められ、1968(昭和43)年にはナイター施設を持つ野球場が完成、これを中心とした運動公園としてにぎわっています。
 園内の設備としては、野球場やテニスコート、プールなどのスポーツ施設、児童遊戯場などがあり、現在の公園面積は15万1千平方メートルです。*3

【参考文献】
*1 『住之江区史』 大阪都市協会編 住之江区制十周年記念事業実行委員会 1985 書誌ID 0000253225 p38
*2 『大阪府住江公園工事概要』大阪府都市計画課編 大阪府都市計画課 1930 書誌ID 0000365254
*3 『大阪府都市公園一覧表 平成17年3月31日現在』大阪府土木部公園課 2006 書誌ID 0011261177
この他、以下にも関連記述があります。
『住江公園案内』大阪府編 大阪府 1935頃 1枚 書誌ID 0000365260
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「あられ松原」について

 「安良礼(あられ)松原」とは万葉集にも見える古い地名で、今の住之江区安立町付近であったとされています。*1
 長い年月の間に新田開発や埋立が進み、今では住之江区でも内陸部といえる安立町ですが、江戸中期頃は、このあたりまでが海岸線でした。海辺にそって松原が広がる景勝地であったことから、安良礼(あられ)松原の名が生まれました。また、松が粗くまばら(疎)に生える松原として「あらら松原」の語があり、それが転じたとの説もあるようです。*1*2
 「万葉集」の巻1には、長皇子(ながのみこ)の歌として、「霰(あられ)打つ 安良礼松原 住吉(すみのえ)の 弟日娘(おとひをとめ)と 見れど飽かぬかも」が収められています。*3
 また、室町時代の公家三条西実隆の「高野参詣日記」にも、「和泉の堺にまかりこゆとて、みちすがらの名ある所どもいひつくすべくもあらぬ見ものなり、霰松原といふ所をすぐとてみれば世のつねの松のはにも似ず、吹からしたるやうにみえ侍れば」との記述と、「木枯の 吹しほる色と みるはかり なにあらはるゝ あられ松原」の歌があります。*4
 そのほかにも、歌枕である「霰松原」を詠みこんだ歌は何首もあり、「さよ更けて 霰松原 すみよしの 浦ふく風に 千鳥なくなり」(藤原知家)、「冬もいま日数つもりの浦さへて 雪にも成りぬ霰松原」(僧正行意)、などが『大阪府全志 3』*5『移りゆく住よし』*6の中で紹介されています。
 住之江区安立2丁目の霰松原公園内には、現在では万葉歌碑も建てられ、霰松原史跡として整備されています。*7

【参考文献】
*1 『角川日本地名大辞典 27』角川書店 1983 書誌ID 0000184865 p101
*2 『広辞苑』新村出編 岩波書店 2008 書誌ID 0011569276 p96
*3 『新編日本古典文学全集 6 万葉集1』小学館 1994 書誌ID 0000396221 p61
*4 『日本歴史地名大系 28-[1] 大阪府の地名1』平凡社 1986 書誌ID 0000156512 p735
*5 『大阪府全志 3』井上正雄著 清文堂 1985 書誌ID 0000172308 p102-103
*6 『移りゆく住よし』石田稔、石田和美共著 石田稔 1988 書誌ID 0080238977 p115-119
*7 『住之江区史』大阪都市協会編 住之江区制十周年記念事業実行委員会 1985 書誌ID 0000253225 p143
 この他、以下にも関連記述があります。 
『すみのえ・まち案内』住之江区役所区民企画室 2005 書誌ID 0011060899 p15〜18
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住吉新地について知りたい

 1800年の歴史を誇る住吉大社。その門前町である粉浜・浜口は、古くから開けた地域でした。
 街道筋に面し、白砂青松の景観にも恵まれたこの地には著名な料理屋も多く、『東海道中膝栗毛』では主人公の弥次さん喜多さんが、実在した住吉新家(住吉区東粉浜付近)の「三文字屋」に立ち寄り、騒ぎを起こす場面も書かれています。*1
 そして戦前の一時期には、住吉公園周辺には「住吉新地」と呼ばれる花街も存在していました。その歴史は『近代大阪と堀江・新町』などの中で詳述されています。*2*3

 江戸期には各所に散在していた大阪の遊所は、明治に入ってからは「指定箇所のみ」と大阪府が法改正と整理統合を進め、明治30年代には、芸妓中心の北新地・堀江・新町・南地五花街、そして娼妓のみの松島遊郭の5か所となっていました。
 が、明治45(1912)年の南の大火により南地五花街の一部、難波新地が消失すると、様々な利権とからんで遊郭の移転や新設が相次ぎます。まず大正4(1915)年に飛田新地に「遊郭」の免許が、続いて大正11(1922)年には、新世界の南陽新地と、住吉新地に「芸妓居住指定地」の免許がおります。
 住吉公園周辺の料理屋にはそれ以前より芸妓もどきの営業をする雇仲居が横行しており、それを追認する形での免許だったようです。指定地となった受けた公園南側(現在では浜口町一帯)の1万坪には、大正末年には芸妓扱席15軒、料理屋(貸席)168軒、芸妓800名が存在する賑わいを見せていました。
 そして、昭和4(1929)年、住吉新地の同盟組合は文化年間にいったん絶えていた住吉大社の「夏越祓(なごしのはらい)神事」を110年ぶりに復活させます。傘下の芸妓らを動員して夏越女(なごしめ)・従者・稚児などを奉仕し、神事の後は住吉公園や新地を練り歩いて行事に華を添えました。実は、元々住吉大社の神事には、花街がスポンサーになっていたものが多かったのです。5月の卯の葉神事には堺の龍神遊郭、6月の御田植(おたうえ)神事には新町遊郭(江戸期までは龍神遊郭)、10月の宝之市(たからのいち)神事には南地五花街から、選ばれた芸妓が参加し宮司とともに大きな役をつとめていました。*4
 
 しかし、昭和9(1934)年6月、住吉公園を一部分断する形で国道16号線(現在の26号線)の建設工事が始まったことなどから、住吉新地には住吉公園の西、「菖蒲園」への移転命令が出されます(「菖蒲園」とは、住吉新地と住之江公園にはさまれた約4万坪の地域に、菖蒲を移設し昭和2年に建設された「新名月」なる名称の遊園地を指すものです)。ただし、昭和9年の室戸台風による被害のため、移転もままならなかった店も多く、また太平洋戦争も末期になると花街の営業は完全に停止されました。戦後にはいったん復活したものの、昭和33(1958)年の売春禁止法の成立とともに、住吉新地の花街は完全に消滅しました。かつて「住吉かるた」にも描かれた住吉新地*5と菖蒲園*6も、昭和30年代の終わりには、元花街の気配がほとんど残らない、ごく普通の住宅地へと変貌してゆきました。

 「夏越祓神事」は、現在では「夏越女保存会」の手により継承されています。*4*7

【参考文献】
*1 『日本古典文学全集 49 東海道中膝栗毛』小学館 1978 書誌ID 0000237606
*2 『近代大阪と堀江・新町』水知悠之介著 なにわ堀江1500 2011 書誌ID 0012398598
*3 『大阪春秋 142号 特集すみよし〜住吉大社1800年』「住吉大社に花を添えた住吉新地」新風書房 2011 書誌ID 0012288708 p52-57
*4 『大阪春秋 142号 特集すみよし〜住吉大社1800年』「夏のおはらい住吉祭」 新風書房 2011 書誌ID 0012288708 p29-35
*5 大阪市HP > 大阪市総合トップ > 組織一覧 > 住吉区 > 区のプロフィール > 住吉区の歴史 > 住吉かるた(2)け、ふ、こ
  
http://www.city.osaka.lg.jp/sumiyoshi/page/0000001440.html (2013年3月25日確認)
  住吉区役所トップページ  (2013年3月25日確認)
*6 大阪市HP > 大阪市総合トップ > 組織一覧 > 住吉区 > 区のプロフィール > 住吉区の歴史 > 住吉かるた(2) め、み、し http://www.city.osaka.lg.jp/sumiyoshi/page/0000001455.html#shi (2013年3月25日確認)
  住吉区役所トップページ http://www.city.osaka.lg.jp/sumiyoshi/ (2013年3月25日確認)
*7 大阪市立図書館HP > おおさか資料室> 住之江区に関するよくある質問と回答 > 住吉大社の神事について知りたい > http://www.oml.city.osaka.jp/net/osaka/osaka_faq/69faq.html#69-200603-002

『墨江村誌』大阪市墨江教育会 1929 書誌ID 0080230661 p367-368
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クリエイティブセンター大阪(Creative Center OSAKA、略称CCO)について知りたい

 住之江区北加賀屋4丁目にある名村造船所大阪工場跡地の広大な敷地を活用するために設立されたアート複合スペースです。*1
 『名村造船所百年史−1911〜2011−』*2によれば、名村源之助氏は、明治44(1911)年に北区安治川通北1丁目(現在の此花区西九条)*3の「上野鉄工所」の設備を利用して造船業の独立経営を開始しました。『造船55年』*4によれば、大正2(1913)年に「名村造船鉄工所」を、木津川の河口、当時の大阪市西区今木町(現在の大正区三軒家東)*3に設立します。
 昭和6(1931)年、当時の住吉区北加賀屋町にあった村尾船渠工場を取得し、同年、「株式会社名村造船所」を設立します。それとともに、旧村尾船渠工場敷地の一部、千島土地株式会社の所有地14,466uの賃貸契約を結びました。これにより、今木町に本社地と第1工場、北加賀屋に第2工場(旧村尾船渠工場)を所有することになりました。*2 
 その後、昭和48(1973)年に稼働を開始した佐賀県伊万里工場に生産を集約し、昭和54(1979)年に新造船地区を特定船舶製造業協会に売却、修繕部門を「名村重機船渠株式会社」として分社しました。修繕船事業は昭和61(1986)年に清算し、事業の幕を閉じます。*2 
 昭和63(1988)年にその土地を千島土地株式会社に返還し、土地は休眠状態でしたが、さまざまなアート(文化芸術)の現場で活動を展開してきたメンバーが、この地や工業地帯の風景と出会い、NAMURA ART MEETING実行委員会を発足させ *5、ついで平成16(2004)年にこの地域を拠点とした芸術活動を考えるイベント「NAMURA ART MEETING’04-‘34」が開催されます。*6
 このイベントの成功を機に、アートプロデューサー小原啓渡(こはら けいと)氏は、土地の所有者である千島土地株式会社から、跡地の一部を正式に借り受けて、アート活動の拠点となるCCOを設立します。*7 平成19(2007)年、名村造船所跡地が、「大阪市の造船関連遺産」として、近代化産業遺産群33(経済産業省認定)に選ばれました。*8
 さらに、平成23(2011)年、芸術文化の振興に貢献した企業などに贈られる「メセナ アワード2011」のメセナ大賞に千島土地が選ばれています。造船所跡地をアートスペースとして再生させる取り組みが評価されたものです。*9

【参考文献】
*1 CCOホームページ http://www.namura.cc/ (2013年6月1日確認)
*2 『名村造船所百年史:1911〜2011』名村造船所百年史編集委員会編集 名村造船所 2012 書誌ID 0012492512
*3 『角川日本地名大辞典』(*2において、その年代には存在しない地名で記述されているなどの不整合が見られますが、上記本文は『角川日本地名大辞典』をもとに修正しました。)
*4 『造船55年』名村造船所 1967 書誌ID 0080201382 p7
*5 『北加賀屋レポート-北加賀屋のいまむかし-』近代化産業遺産(名村造船所大阪工場跡地)を未来に活かす地域活性化実行委員会 2010 書誌ID 0012161456 p8
*6 『朝日新聞2004年9月25日大阪朝刊』 28面(商用データベースでもご覧いただけます)
*7 『大阪人 2010年7月号』 p86〜89
*8 『産業遺産の記録 −日本の近代化と繁栄を支えた産業遺産の時空を超えた魅力に迫る!−』 J-heritage著 三才ブックス 2012 書誌ID 0012615314 p88〜89
*9『朝日新聞2011年10月22日朝刊』 37面(商用データベースでもご覧いただけます)
この他、以下にも関連記述があります。
『CEL-CULTURE, ENERGY AND LIFE- 2011年3月 96号』p84〜87「アート発信の中心地へ変貌 造船所文化をつくる」 大阪ガスエネルギー・文化研究所 書誌ID 511226742
『美術手帖 2004年10月号 855号』p120〜121「名村造船所跡地30年の実験」 美術出版社 書誌ID 5110832942
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